どうなるんだ日本のゴジラ

 東宝製作によるゴジラ次回作の監督が正式発表されてしばらく経ちますね。
脚本・総監督に庵野秀明氏、監督は樋口真嗣氏とのこと。

 某ニュースサイトでお二人のコメントを読みました。
やっぱり今の日本映画は作り手に対して様々な制約を課そうとするんですな。それは一体何のため? 誰のため?
少なくとも観客のためではないですね。
観客は作品の好き嫌いや出来不出来は気にしますが、がんじがらめになった作家が作る物を見たいとは思いませんよ。
社会批判も政治批判も大いにやって欲しいところです。
(いまゴジラ映画を作るなら、原発を批判せずにどうする? それと、のちになって制限をかけられた結果あんなことになった、などという言い訳が出てくるのもイヤだ)

 しかし。ゴジラ映画を作るとなると、先人の創作物を引き継ぐのですから、起用された作家の思い通りにさせるのが正しいとも言えないでしょう。
エメリッヒ版は言うに及ばず、ゴジラを心霊現象にしちゃった例もありますからね。

 お二人がゴジラ、そしてゴジラ映画をどのように考えているのかは知りません。
ですから私自身の感想としては、格別な期待感も失望感もありません。強いて言うなら、『巨神兵東京に現わる』(企画・庵野秀明 監督・樋口真嗣)を見た印象から、
ストーリーは観念的で、映像はインパクト優先のコマーシャルフィルム的なものになるのだろうな、と想像しています。
 残念ながらそれは私が見たいゴジラ映画ではない。

 ゴジラ60年の歴史の中でさまざまなゴジラと名付けられた怪獣が登場してきました。個人的には設定や劇中の歴史を書き換えられたものはゴジラと呼びたくないところですが、
社会的には東宝がゴジラと認めたものはゴジラとされているようなので、まあ、そこは仕方なく認めるとしましょう。
では、そんなゴジラたちの中でもっとも魅力的な怪獣はどれなんでしょう?
あるいは、ゴジラマニアではない人々がイメージするゴジラはどのゴジラなんでしょうか?

 もう「新しいゴジラ」なんか見たくないですよ。みんなが知ってるゴジラの映画を作って下さいよ。

 そうなると本多猪四郎・円谷英二時代に生み出された初代および二代目ゴジラか、大森一樹・川北紘一監督によるvsゴジラのどちらかしかないんじゃないでしょうか?

 私は、二代目ゴジラの新作を見たい!

 二代目は顔かたちの変遷はあるにせよ、劇中では『ゴジラの逆襲』から『メカゴジラの逆襲』まで矛盾なくつながる存在です。
70年代に製作された作品ではあからさまに低年齢層を狙ったキャラクターにされたフシもありますが、二代目ゴジラを再び子供から大人までの鑑賞に堪える映画に登場させることは可能でしょう。
なぜそれをやってはいけないのでしょうか。
 1984年のいわゆる復活ゴジラ以降、一作たりとも二代目ゴジラの復活を狙った作品がないのはどうしてなんでしょうか。

 ちょっと話を戻しますが、私は、ゴジラを破壊神だ、などと思ったことはありません。vsゴジラが破壊神を名乗り、その通りに荒ぶることばかりを売り物にしたことが好きになれない一因です。
(ベビーゴジラ登場以降は少し違う面も見せるわけですが・・。そのあたりも絡んでvsシリーズでは『vsメカゴジラ』が一番好きな作品です)

 昨年の『GODZILLAゴジラ』はマスコミを通じての印象では高評価のようでしたが、ゴジラマニアの方々に直に話を聞くと、酷評が多かったです。
私の感想は、BBSやこのブログにも書きましたが、まず、あれはゴジラではない。(設定や姿形が違うのに、どうしてゴジラと呼べるか?)
しかしながら、映像技術面、カメラワークなどには見るべき点はあった。(怪獣に対する驚きを持った映像演出であった。日本のゴジラ映画では怪獣がいて当たり前という意識に支配された作品が長く作られてきた。とくにミレニアム以降はその傾向が顕著である。
そのため、劇中での怪獣初登場シーンを盛り上げる工夫やタメがおろそかになった作品が非常に多い)てなところでしょうか。

 そんなハリウッドゴジラと差別化するために今度の日本のゴジラはどうするんでしょうか?
聞くところによると、歴代ゴジラの中で最大のサイズだとか。ゴジラの身長は50メートルだったわけですが、巨大化した理由を劇中で描くのでしょうか。それとも、過去作品とのつながりのない新ゴジラとして何の説明もなくバカでかい怪獣が出てくるのでしょうか。

 ハリウッド版も続編が企画されているそうですから、日本では別のことをやらなければなりません。ハリウッドが別物ゴジラを送り出してきたのですから、日本では伝統的なゴジラを作った方がいいのではありませんか?
すでに企画は固まっているようなので、ここで何を言っても(それと私ごときが何を言っても)無駄かもしれません。
でも言わずにいられない。私の好きなゴジラは二代目ゴジラ。あいつの新作を見たいからゴジラを応援する。二代目ゴジラが好きな人は他にもいるはずです。そのときどきでゴジラを任された人が作る物を唯々諾々と受け入れるのがゴジラファンではないですよ。
好き嫌いははっきり言わないと!

 またしてもゴジラっぽい怪獣のバリエーションを見せられるかもしれないと思うと、ぞっとしますよ。もうゴジラファンという括りだけでは趣味が合わなくなってしまいました。次々に現れる「違う」ゴジラたちのせいでゴジラファンの分裂状態ですわ。
 なんとかしてくれい!

 年齢で考えれば(まあ、その基準にどれだけ有意性があるのか疑問だが)私は庵野氏と樋口氏の中間。ゴジラ体験にそれほどの違いがあるとは思えないけれど、ゴジラ観は違うのかどうか。お願いしますよ、ホント。



 東宝の新作ゴジラ監督発表に関して何か言わねば、と書き始めたものの、思いは多く、とりとめのない文章になってしまいました。あまり長くなってもナニですのでいまはここまでにします。

 庵野さん、この文章には、善意も悪意もありませんよ。創作物の発表にせよ、意思を記したコメントの発表にせよ、「表現」ですよね。
「表現」に対する反応は善意・悪意という対人関係的なものではなく、納得・共感とか反駁・違和感といった表現内容に対する判断・評価のほうが多いでしょう。
(なんで善意とか悪意を気にするかなぁ)
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今日はゴジラの誕生日!

 今年はゴジラ誕生から60周年ということで、ハリウッド版も公開され世間でもゴジラについて取り沙汰されることも多かったですね。
映画チャンネル、日本映画専門チャンネルではゴジラ映画全作品放送を企画して、現在も放送中です。それをきっかけにして、ブルーレイや放送版で私もゴジラ映画全作を再鑑賞。
作品によっては複数回見ました。(第一作『ゴジラ』はブルーレイ、劇場、BS放送などで4回観た)
 シリーズ中には二度と見るかっ!と思った大嫌いな作品もありますが、とにかく全部見直したのです。

 ここでゴジラに詳しくない方むけにシリーズの流れをざっくりとおさらいしますと、
第一作『ゴジラ』は1954年公開。翌年『ゴジラの逆襲』が公開されますが、しばらくゴジラ映画はお休みとなります。その間、東宝特撮はSF・戦争・ファンタジー、ゴジラ以外の怪獣映画で特撮映像の可能性を模索し続けます。
1962年、東宝創立30周年記念映画としてゴジラ復活、『キングコング対ゴジラ』が公開。一年おいて、1964年には『モスラ対ゴジラ』『三大怪獣地球最大の決戦』の二本。
その後は毎年一本のゴジラ映画が製作されて、1969年『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』までシリーズは続きます。
 しかし、1970年に特技監督円谷英二が死去。一旦流れは途切れます。
 1971年、『ゴジラ対ヘドラ』でシリーズ再開。1975年『メカゴジラの逆襲』まで続きました。ここまでのゴジラは劇中の扱いから考えて、『ゴジラの逆襲』から登場した二代目ゴジラであると考えられます。

 9年のブランクを経て1984年に『ゴジラ』という映画が公開されます。この映画では1954年以来30年ぶりにゴジラが出現したことになっており、二代目ゴジラの存在は抹殺されました。
 さらに5年おいて、1989年『ゴジラvsビオランテ』。この映画は84年『ゴジラ』の続編になっています。その後、1991年『ゴジラvsキングギドラ』ではタイムマシーンを登場させ、初代ゴジラも抹消。以下、1995年『ゴジラvsデストロイア』まで、先行作との関連を作ったり断ち切ったりの不安定なストーリー作りで毎年続きます。

 1998年に『GODZILLA』というアメリカ製作の番外編が世界公開。その不評を受けて1999年に『ゴジラ2000ミレニアム』という作品を皮切りに日本でシリーズ再開。2004年の『ゴジラfinal wars』まで続きましたが、この時期のゴジラ映画は監督次第で好き勝手。一応ミレニアムシリーズというくくられ方をすることもありますが、vsシリーズほどの一貫性はありません。

 さらに10年を経て今年の『GODZILLAゴジラ』が出てきました。

 それで・・・。

 私がゴジラを好きなのは、その姿形、不死身の巨体はもちろん、性格が陽性であるところなのだ、と再確認。
 まてまてまて、そんなのは一部のゴジラではないか、と突っ込まれますよね。
 そうです。シリーズ中、一部のゴジラです。円谷英二が関係したゴジラは「陽性」です。

 初代も陽性だったか?と疑問に思う方もいらっしゃるでしょう。その疑問には、『ゴジラ』(1954)をもう一度ご覧下さいと申し上げます。怪獣ゴジラのどこに陰気さがあるでしょう? 映像演出に暗さがあるのは確かですが、ゴジラは陰気な奴じゃない。

 私にとってゴジラとは、円谷英二が演出した初代・二代目の元祖ゴジラ。
 彼(ひょっとして彼女?)が好きです。
 あとのゴジラは、芝居が軽すぎたり、無機質だったり、やたらと厳めしかったり、単なる乱暴者だったり、見た目が変わりすぎたり・・・・・などなどゴジラに見えないものがほとんどです。
(映画の出来の問題もあるけれど)

 続編を作るなら二代目ゴジラのその後を描いて欲しい。
 ゴジラと名付けられただけの別の怪獣など求めていない。

 1984年の『ゴジラ』以降、どういうわけか円谷時代とは違うゴジラを作る努力を重ねているように見えます。
 本多猪四郎監督・円谷英二監督は天才でした。
 そんな天才たちが寄り集まって作ったものに匹敵することはなかなか出来ないでしょう。だから映画の出来として本多・円谷コンビ作より劣るからといって全否定はしません。
 しかし、本多・円谷コンビ路線を守ろうとした作品が一つも無いのはどういうわけでしょう。
(それは、怪獣たちの設定・性格付けにとどまらず、ストーリー構成の発想の仕方、映像演出の方向性などなど)
 先人が作ったゴジラを引き継ぐのに、なぜ別のことをやろうとするのか理解できません。

 昔の作品をそのままなぞれというのではありません。
 映画は時代に合わせて変化するものですから、登場人物の性格付けや演じ方も変わってしかるべきだし、ストーリーに織り込むテーマも変わるでしょう。当然技術面もアップデートすべきです。
 けれども、怪獣たちの姿形、その出自、性格、作品とともに重ねてきた歴史を改変する必要がどこにあったのか、不思議でたまりません。

 今年のハリウッドゴジラ、『GODZILLAゴジラ』がヒットして、ハリウッド版も続編を考えているらしいけれど、日本でもゴジラを作る気運があるとかないとか。
いまがチャンスだ! 丸10年新作が無かった日本のゴジラ映画、今度こそ本来の本家ゴジラに立ち返れ。84以降、何度も本家ゴジラはなかったことにされたんだから、今度、VSゴジラやミレニアムゴジラを無かったことにしたって文句は言わせないぞ。

GODZILLA(2014)について

『GODZILLA』(2014)についてギドラの巣映像作品掲示板に分載したものを一括掲載します。
 登場するゴジラについて、設定や姿形・気質からゴジラとは認めがたいことからギャジラ(ギャレスゴジラ)と呼ぶことにしていましたので、文中ではゴジラのことをギャジラと書いています。劇中の怪獣たちについては、映像作品掲示板にて個別に印象を述べておりますので、そちらもご参照ください。
 意見交換は映像作品掲示板がメインとなっております。以下、映像作品掲示板からの転載です。

GODZILLA(2014) ストーリーに沿って

怪獣のことばかり書いてきましたが、さすがに映画全体のことを書かねばなりません。

 どこから手を付けたらよいやら少々悩みまして、
ストーリーに沿って気がついたこと、気になったことを書いてみたいと思います。
 どこかで誰かが書いていることの繰り返しになっているところもあるでしょうけれど、私は誰の感想もパクってません。
(ネットにはパクリ屋が多いですが、誰かの意見を引用するなら引用であることを表明すべし)

 オープニングクレジットは断片的な映像でこの作品世界のゴジラ史をたどる形になっていました。
怪獣研究組織(?)モナークの結成だのギャジラ(ゴジラ)に核攻撃を仕掛ける様子だのと、のちに本編で明かされる事情を矢継ぎ早に見せていきます。
 これは世界設定を婉曲に伝えて、現実世界とは違う枠組みのお話だよと宣言しているのでありましょうが、ちょっと遠回しすぎたんじゃないでしょうか。
 とくにモナークに関しては、劇中では何をやっているのかさっぱりわからない扱いなので、このオープニングではっきり説明してもよかったでしょう。
 同時にギャジラ(ゴジラ)の存在に人間が気づいた話もしてしまえばよかったのです。

 結局、劇中ではモナークは何十年も前からゴジラの存在を知っていたわけですし、謎扱いなのはムートーのほうで、ゴジラをもったいぶった扱いにしたことにあまり意味はないです。

 さらに、モナークがゴジラの存在を秘密にしたことの意味もないです。
先にも書きましたが、クレジットタイトルの見せ方に情報隠蔽を象徴するような演出があるにも関わらず、ストーリー上、情報操作、情報隠蔽の是非を問う展開はありません。
ギャジラを秘密にしたのはなぜ???

 さて映画は1999年のフィリピンで幕を開けます。
鉱山で放射能を強く感じ、ウラン鉱脈があるのかと思いきや、巨大生物の骨の化石と謎の卵(?さなぎ?)が発見されます。
 この骨の化石を見つけたモナーク職員は「(何者かを知っているような口調で)ひょっとしてこれは?」みたいなことをいいますが、ナベケンは「いや、もっと昔の物だ」と否定。
 1954年に出現したゴジラの骨かも、と思ったらしい芝居があります。
ということは、しばらくギャジラの消息はわかってなかったということが推察されますが、のちにゴジラについて説明する場面でも、1954年以来60年間、人類とゴジラがどんな関係だったのかさっぱりわかりません。
 このあたりの感覚が、実にオタクっぽいと申しましょうか、共通了解事項をどこに置くかが間違っているのです。
劇中世界の設定がどうあれ、現実世界ではゴジラファンはずーっとゴジラの動向を追ってきたわけで、いわばゴジラは遍在しています。
 しかし、映画というメディアを使って、怪獣が実在するもう一つの現実を描く際には、その世界での社会・人間がどうあるのか、をニュートラルな立場から描かねばなりません。
 ゴジラってずーっといたじゃん、という意識は通用しないのです。
 もし、この映画が日本のゴジラシリーズ(二代目ゴジラでも平成VSでも)の世界を引き継いでいるのなら、その設定を明示するだけで人類とゴジラの60年を説明できますが、
 まるで別個のものなのですから、劇中の歴史はきちんと伝えるべきです。

 1999年のフィリピンでは、本筋とは関係ありませんが、もうひとつ突っ込んでおきます。
 放射性同位体が化学反応によって放射能を強めるなんてことはないんじゃないの?

 舞台は変わって、日本、ジャンジラ。
(日本語字幕でなぜジャンジラを表記しない?)
 ジャンジラってどこだーーー!!富士山が見えるし、高層ビルがあるしぃ。
 ま、原発事故を扱うので実在ないしモデルが推察される場所は使えなかったんでしょうけれど、ジャンジラという地名、まるで日本的ではない・・・・。
 そして日本の原発に外国人が職員として雇われるということがあるんでしょうか?
 原発はテロに対し相当警戒しているはずで、帰化しているならともかく外国籍の人間を技術者として雇うとはちょっと考えられないのですが。
(原発に外国人職員がいるという事例があるなら御免なさい)

 それでも、この原発事故シーンでの夫婦の別れはなかなかよかったです。
 放射性物質の漏洩を防ぐために、ひょっとしたら助けられたかもしれない奥さんを見殺しにしたわけですよね?(え?違うの?)

 しかしだ、ジャンジラでも突っ込まなければなりません。
 子供時代の主人公の部屋に、架空の怪獣映画らしきもののポスターが貼ってありますね。
 この世界には怪獣映画があるのですか?
となるとギャジラやムートーを見た人のリアクションや報道のあり方が変わってくるでしょうが。
 こういうところ、筋を通せ!
 子供って怪獣が好きだよね、自分が子供の頃は怪獣映画のポスターを部屋に貼ってたもんね、という演出なのか?
これまたオタクの発想。

 原発事故で母親が亡くなったところで現在(2014年)に飛びます。

 軍人になった主人公は久々の帰宅。
 家族の再会を喜んだのもつかの間、親父が日本で捕まったという連絡を受けて日本へ。

 うーん、カメオ出演するという噂だった宝田明さんはついに出てこなかったのでは。
 エンドロールに名前はあって、「Japanese immigrationなんとか」と役名がついていたので、このあたりで出演かと思ったのに、宝田明どこ??

 警察に親父を引き取りに行くシーンがなかなか笑わせてくれます。
 不良息子を引き取りに来たらしき日本人男性のセリフが、なんともアニメ芝居口調でまるで映像に調和していません。日本語での芝居には誰か日本人のアドバイザーをつけたほうが良かったのでは?
(坂野監督、なんとかなりませんでしたか?)

 父親が暮らすアパートでのやりとりで、親父は15年前の原発事故原因に不審なものを感じてずーっと調べているらしいこと、
 それがきっかけで親子仲が悪くなっているらしいことが示されます。
 この人間関係の組み立てはなかなか巧みでした。
 父は妻を失ったというショックもあり、かつての事故にこだわっている。
 息子は母親を亡くしたことはショックだったとしても、人生を前進させるために過去を封印して生きている。
おそらくどちらも正解なのだけれど、過去を忘れず探求する父親は真実に迫ることが出来たわけです。

 昔の家においてある資料を回収するため、謎の支援者に送られて避難地区に侵入する二人。
 ここはもう、現実の原発事故避難地区の話がストレートに下敷きにされています。
 しかし、この映画では放射能があると嘘をついて立ち入り禁止にしていますが、現実はそうではない。
現実のほうが悲惨だ。

 しかし、はて?
 父親は6年間こんな生活を送ってきた、と語っていて、今回も避難地区に侵入したことで捕まったのですよね。
 この6年の間に昔の家からデータディスクなんか回収できていてもおかしくないのだが。
 この映画全体にこんな疑問が多いです。
 映画の構成としてここでこれを見せたい、という演出が先行し、蓋然性が作り手によって操作されている場面が多いのです。
 これはまずい。ダメシナリオの典型ともいえます。

 侵入した二人は、避難地区に放射能なんかないことに気がつき、原発跡に何かがあることを見たところで警察でも自衛隊でもないような警備の人間に捕まります。
 ここの日本語芝居もひどいですね。
「お前ら、なにやってんだ!」みたいな、とても官憲とは思えない怒声が飛び出します。

 で、ついに主人公とモナークの出会い、さらにはムートーくん出現という前半の山場となります。
 この原発跡のシーンはいいですねぇ。
 ムートーのさなぎ(??)の形やフラッシャー(70年代のかっちょいい自転車参照)のように光を放つ様子なんて怪獣感満載。
 電磁パルス放射ありーの、電撃でさなぎを殺そうとするも失敗して・・・、と丁寧に事態の推移を見せていくことで盛り上がっていきます。
 さなぎの殻が破れ少しずつ姿を現すムートーくん、混乱の中で踏みつぶされたりクレーンやキャットウォークの倒壊で命を失う者・・・。
 怪獣災害で人命が失われることを描くには細心の注意が必要ですが、このシーンのバランスの取り方は良かったと思います。
 ことさらに残虐さを強調することはなく、しかし、誰かが死んでいることは明確に示しています。
 また主人公の親父が倒れてくるクレーンに気がつき、見ず知らずの誰かを助けようとして「そっちに行くな」と声をかけるのも人物像を表す名場面。
 怪獣初登場シーンとして、歴代上位に来るムートー出現シーンでした。

なのですが、ムートーくんが飛び去ったあと、一夜明けて米軍が乗り込んでくるのはいかがなものか。
 ジャンジラ原発は日本の領土ですよ。
 いくらモナークが多国籍組織だったとしても、「ここからは米軍が指揮する!」はないでしょう。
 欧米からは日米関係なんてそんなものと見られているんでしょうかねぇ。
 まあ、自国領土内に米軍基地を受け入れている国だもんなぁ。
としても、せめて日本政府と米政府のやりとりがあってもよかったんじゃないでしょうか。
 怪獣映画は社会ドラマでもあるのです。

 ナベケンの希望により主人公と親父さんはムートー対策スタッフに抜擢、空母サラトガへ移乗することになりますが、
 そのヘリの中で親父さんは死亡。
 これでもかと家族の死別を描きます。
 この映画の大テーマは家族は一緒が一番、なので、正しい作劇ですね。

 サラトガ内で、ここまでの流れをおさらいするようにモナークによる怪獣講義。(結局、モナークが何をやっている組織なのかはここでもよくわからず)
 過去のギャジラ観測映像などが上映され、少なくともモナークはずーっとギャジラを追いかけていたことがわかります。
 そして・・・うーーーーーん、ノーチラス就航でギャジラを見つけたは良いけれど、核実験がギャジラを殺すためだったとは、なんという言い訳。
 現実の核実験は戦争で人間を殺すための爆弾開発だったのだ! 世間からは叩かれましたがホントは世のため人のためだったんです、みたいなお為ごかしをするんじゃねぇ。
 この設定一つで、『GODZILLA』(2014)は『ゴジラ』(1954)の精神を踏みにじったと言っていい。

 このシーンで、あれ?、と思ったのは、日本語字幕があまり良い出来ではないんじゃないか、ということ。
 フィリピンで見つかった骨の化石とムートーの卵について説明するくだりで、
字幕では「巨大生物の化石と卵のようなものを見つけ・・・」となっていましたが、
セリフでは「ゴジラらしき巨大生物の骨の化石」と言っていたようです。
ゴジラらしき、と言うか言わないかで意味合いが大きく変わってきます。
 ムートーとゴジラには何らかの関係があると示したい説明だったはずですが、字幕の文言だと巨大生物というのがムートーのことかもしれないという解釈を生んでしまいます。
きっと、私には聞き取れなかった部分で多数の間違った省略があったんじゃないでしょうか。

 それから、ムートーが東へ向かったという話がありーの、ハワイの近くでロシアの原潜が行方不明になったという話もあって、サラトガはハワイへ。
(このあたりで突然、ムートーという名前が出てくるんですよね。KJさんのご指摘の通り、この命名には何の説明もありません)

 主人公は早くサンフランシスコの家族の元へ帰りたいと、ヘリで一足先にハワイへ。

 森の中に原潜が落ちているなんて、「帰ってきたウルトラマン」バリケーンの巻みたいな場面も良い感じ。
(ま、ムートーくんがどうやって原潜を引きずり上げたのかは謎)
 ここで電磁パルスによる航空機墜落を見せて、ムートーの能力を示します。
付言すると、この電磁パルス、核爆発時に起こる現象に似ていて、作り手が核兵器を意識しながら設定を作っていたのではないかと思わせます。
(が、しかし、エンディングで台無しなのですが)

 主人公は空港へ向かうモノレールに乗るのですが、なぜか日本人少年が間違えて乗ってしまい、両親とはぐれます。
彼がなぜ乗るべきでない車両に乗ってしまったのか、どうもわかりません。
 これも家族の離別というシチュエーションを作るために無理矢理ぶっこんだシーンに見えてしまいます。

 ムートー電磁パルスで停電、モノレール停止という描写もあって、怪獣の強大さを伝えることに成功しています。
(軍隊の攻撃に対して電磁パルスを発生させたのでしょうけれど、無関係なところまで影響を及ぼしているのがいい)

 サラトガではムートーではないなにかが海底から接近していることを察知。
ナベケンさんはギャジラだろうと推察、ぜひこの目で見たいと甲板へ。
ということは、それまでナベケンさんはギャジラを見たことがなかったということなんでしょうか。
これも、いままでモナークが何をしていたのかがまるでわからないために、いまいち感情が盛り上がりません。
さらにギャジラくんは空母を避けるように潜り込んでから浮き上がるので、どうしても人間に気を遣っているように見えます。
これがまずい。
 まるで「ネオウルトラQ]第一話のニルワニエですな。
そういや、あの怪物も自然のバランスを保つ役割でした。ダメな作品を参考にした?(ギャレスさん、日本人が作った怪獣ものが正しいとは限らないのですよ)
 ここは、ギャジラがサラトガを背びれで真っ二つにして進行するべきでした。
 ゴジラならそうする。

 ハワイの海岸ではまるで津波のように潮が引く描写。
 それで、人々は逃げろーー!
 KJさんが謎の津波だと思ったのも無理ないです。
 私は話のつながりから、ギャジラ上陸に伴った現象なのだろうと思って見てはいましたが、ギャジラが海岸に接近して行ったとして、なんで海水が引くのか?
 津波のような海水の波動が起こるわけではないでしょう?
それから、陸地に上がってきた海水量も多すぎでは。

 また、米軍が兵士を配置していてギャジラに攻撃を加えますが、なんすか、あの機関銃は。
これもギャジラと人間の60年がわからないので、指揮官がド阿呆なのか、対ギャジラ戦に経験が無いためなのかまるでわかりません。

 モノレールからムートーが見えるカットや、空港でのムートーなど、現場にいる人間の視点を大事にした映像が臨場感たっぷりです。
 とくに空港では、カットが変わっても被写体(怪獣)のアクションがちゃんとつながっているのがすばらしいです。
映画の基本テクニックである、マッチ オン アクションをまじめに実施しているのです。
近年の日本特撮ではほとんど使われないテクニックですが、これをまじめにやることで時間の連続性が守られて臨場感が増すのです。

 ところが、いよいよギャジラ対ムートー第一回戦が始まったとたん、場面はサンフランシスコの家に転換。
ばっかだなぁ。
 低予算映画の癖から抜けられなかったのか?
 じらし演出のつもりかもしれませんが、ここはじらさず、尺が短めでもちゃんと対決を見せるべきです。
 ラストバトルの開始時にもカットアウトしますよね。
そんなことをすると、観客の盛り上がった気持ちに水をかけるだけの結果になりフラストレーションがたまります。
じらすなら、必ずそのフラストレーションを解消する爆発的な開放感のあるシーンを用意すべきですが、この映画にそんな開放感はありません。

 ギャジラ対ムートーはサンフランシスコのTVにちょろっと映るだけ。

 一夜明けて、主人公が助けた少年はめでたく両親の元へ。
 このシーンももう少しどうにかならなかったんでしょうか。
 不明者照会所みたいなところで手続きしようとしていたところ、子供がどこかへ走り去り、見ると親に合流出来たのがわかる、という流れですが、
人間心理のリアリティを考えれば、見つかった子供に親は、何があったのか、どうしていたのかを尋ねるはずであり、
主人公に礼を言う場面は必須と思われますが・・・。
 そんな人間関係の点描が足りないのだよなぁ。
 避難地区へ潜入するときも、船には支援者と思われる人物が乗っていて二人を連れて行っているのはわかるのですが、親父さんとのやりとりなんかは全くなし。

 主人公は軍と合流してアメリカ本土へ向かいます。

 空母ではモナークのみなさまがムートーが発していた振動の意味を推測。
フィリピンで見つかったもうひとつの繭?さなぎ?が孵化したんじゃないか、ということで保管場所(ネバダの核廃棄物処理場)を調べることになります。

 場面は一転ネバダへ。
 このシーンもなぁ。
 調査隊が保管庫の小窓を開けて中を覗いて回り、本来暗いはずの保管庫に小窓から強い光を放つものがあって、中で別のムートーが発光でもしているのか、と思わせて、
実は大穴開けて外界へ歩き去った後でした、という演出。
 最初に見たときは、うまいなぁ、と思ったのですが、いやいやいや、調査隊はムートーちゃんの後ろ姿を見ているわけで、ということはムートーちゃんが穴掘りしてからそんなに時間は経っていないはず。
ならば、調査隊が保管所に到着してからなんらかの振動なりなんなり、異変に気づくはずでしょう。
 それから核廃棄物処理場(実際は処理なんかしてませんから、保管所というべきだ)にはなんにも監視装置や管理人がいないのでしょうか。
 ムートーちゃんが飛び出しても保管庫のドアを開けるまで気がつかないというのは、どうにも変です。
これも、観客が何も知らずに見ていれば、小窓を開ける芝居から保管所に開いた大穴を見せるところへ持って行って、びっくりさせることが出来るという演出優先のシナリオですね。

 このあともいけません。
 ラスベガスを襲うムートーちゃんも監視映像でしか見せず、怪獣による都市破壊のカタルシスを感じさせてくれません。

 墜落している旅客機やそのまわりで渋滞している車列という映像はパノラマ感もあってなかなかいいのですが、この映画、なんらかの大きなアクションは結果しか見せません。
 電磁パルスで旅客機は墜落したのかもしれませんが、それを見せてナンボでしょう。怪獣映画は。
 この決定的瞬間を省略するやり方は、スペクタクル性のある事件を扱いつつも映画全体のテーマが別の方向にある場合は有効ですし、似たような場面の繰り返しを避けるためのテクニックではありますが、
 怪獣映画において怪獣の大暴れを省略してどーすんの?
(ゲイジュツ映画撮ってるんじゃないんだよ! テーマは怪獣! 露出計を振り回している暇があったらクランクを回しなさい)

 二匹のムートーはサンフランシスコあたりで合流するらしいこと、そこへギャジラも向かっているらしいことがわかり、提督が大馬鹿作戦を思いつきます。
 核弾頭で海上へおびき出し、怪獣たちが集まったところで爆発させるというのです。
 核爆弾を使うことの是非を置いても、私はてっきり、ムートーの電磁パルス影響圏を迂回しつつ航空機で弾頭を運び、海上で待機する船舶に載せるのだと思ったのですが、
 なななんと、飛行機は落とされるから鉄道で陸路を運ぶんですと。
 開いた口がふさがりません。
 ムートーが放射性物質を察知する謎の能力を持っているなら、列車で運ぶ途中で襲われるのは必定。(実際にそうなる)

 さらに、話は前後しますが、核弾頭を奪ったムートーは卵と一緒に弾頭を安置していますから幼体のエサにするつもりなのでしょう。
 さて、ムートーちゃんが保管されていたのはどこでしたか?
 核廃棄物処理場ですよね?
まわりはエサだらけじゃないですか。ムートーちゃんは動かず、ムートーくんが来るのを待っていれば良かったんじゃないでしょうか。
(それとも、複雑怪奇な裏設定があるの?)

 そして、核攻撃を思いついた提督にナベケンさんは父の形見だ、と懐中時計を見せますが・・・。
 KJさんの指摘にもあり、某新聞の映画評でも突っ込まれていることで、父親が広島の原爆で死んだとするならナベケンさんはいったいいくつなんだ、と。
 ところが、非常にずるいことに、ナベケンさんは「父は原爆で死んだ」とは一言も言っていないのです。
 広島の原爆で止まった懐中時計が父の形見である、ということらしいのです。
えーと、どういうことなんでしょうか。ひょっとすると父親は反核運動かなんかをやっていて、8時15分で止まった懐中時計を大事に保管していたのかもしれません。
 なんてね。
 まともに受け取れば、父親が広島の原爆で亡くなったのだ、と訴えるシーンですよね。
(これも字幕の不備なのか? もともとのセリフでは広島の原爆で死んだ、とはっきり言っている??)

 アメリカ本土へやってきた主人公は、サンフランシスコへ早く行きたいと核弾頭運搬列車に志願。
 爆弾処理班だからとかなんとか言っちゃって。
 うーん、しかし、この核弾頭、メガトン級だとは言ってましたが、原爆なのか水爆なのか。少なくとも日本語字幕では説明なしでした。

 列車には二発の核弾頭が搭載されているように見えました。
 そして夜のトンネル。
 トンネルの向こう側の様子がおかしいと列車を止めて兵士が調べに出ますが、やはりムートーちゃん出現。
 このシーンでのムートーちゃんの行動がどうだったのかが非常にわかりにくい。
鉄橋でムートーちゃんをやり過ごした主人公たちですが、トンネルを抜けて燃え上がった列車が突っ込んでくるのです。
ムートーちゃんがどこをどう歩いて山の向こう側へ行ったのか?
 まあ、ありえないとは言いませんが、怪獣の行動は観客に見せてもいいんじゃないでしょうか?

 ついでなので、ここで書いておきます。
 この映画、現場の人間視点にこだわるあまり、怪獣映画で大事な要素、観客が怪獣と一体になる感覚を作っていません。
 カメラポジションの選び方や場面構成(コンテと言っても良い)が怪獣視点を取り入れていないのです。
 ですから怪獣にとって節目になるシーン(ギャジラ対ムートーの戦いの流れ、ムートーくんムートーちゃんが人間と対戦したと思われるくだり、ムートーの巣作りなどなど)がいつも断片的で盛り上がりません。

 さて、列車を襲ったムートーちゃんは核弾頭をなぜか一発だけ飲み込んで去ります。
 もう一発を見逃したのはなんで??
 そして鉄橋が壊れ、列車と主人公は川へ真っ逆さま。

 ダイハードな主人公は無傷で下流に流れ着き、そこへもう一発の核弾頭を回収するためにヘリコプターがやってきます。
おいおいおいおいおいおいおい!!!!!
 航空機は落とされるから使えないんじゃねーの??
だったら初めからヘリを使おうよ。(米軍ご自慢のオスプレイならどーよ)

 というわけで主人公は無事救出され、核弾頭は海上の艦船へ。(なんだかなぁ)

 このあたりで提督とナベケンさんの意味ありげな対話があったと思います。
 曰く「人間は自然を支配していると思っているが、実際は逆だ」とかなんとか。
 うーーん、怪獣映画のテーマとしては全く正しいのですよ。
 けれども、この映画にそんなお題目を感じさせるシーンがどれほどありますか?
 人間の知恵や物量を持ってしても怪獣には歯が立たない、というシーンがあるのなら、このセリフにも意味が出てきます。
 しかし、対ギャジラでもムートーでも、人間がまともに戦いを挑んでいるシーンはほとんどありません。
 これは、劇中世界でなにもしていないという意味ではなくて、人間対怪獣を丁寧に見せるシーンがないということです。

 映画は論文ではありません。
 言葉で説明するだけではだめなのです。
 現象として、テーマを具現化してください。


 サンフランシスコでの避難令のシーンなどがあり、主人公の奥さんが子供をどうしようかと逡巡したりがあって、
 ここでも驚かせ優先の小手先のシーンが出てきます。
 雲を抜けてパラシュートで降下する兵士を見つけていぶかる奥さんに続いて、ビルに激突する戦闘機ドーーン!!
ここも最初に見たときは、「巧いなぁ」と思ったのですが、
 これ、上空でムートーくんと戦闘機隊が交戦した結果なのですよね。
ビルにドーーンのあと、多数の戦闘機がひらひらと落ちてきて、中には落下しながら兵士が脱出しているものもありました。

 ならば、パラシュートを見せる前に、ムートーくんを追撃する戦闘機隊、ミサイル発射などなど『空の大怪獣ラドン』ばりの空中戦を見せてから、
別のシーンで一旦落ち着かせて奥さんのパラシュート目撃につないでもいいんじゃないですか?
 観客はムートーが電磁パルスで飛行機を落とせるのは知っているので、その瞬間を見せる必要はないです。
 けれども、せっかくの飛行怪獣なのに、戦闘機隊との空中戦を見せないのは、どうかしてるぜ!
鉄道で核弾頭を運ぶシーンなんていらないのです。

 戦闘機を落としたムートーくんは核弾頭を搭載した船を襲って、核弾頭を奪取。
(このとき、起爆装置のタイマーは1時間30分とセットされていたようだが・・)
 そして、ムートーちゃんと合流するのですが、このシーンはかなり良かったです。
 ビルのてっぺんに着地したムートーくんが崩れた足下によろけるあたりは、『空の大怪獣ラドン』からのイタダキですね。
そして二匹のラブシーン。ムートーくんが核弾頭をムートーちゃんに渡すしぐさは動物っぽくていいです。
(怪獣に神性を見いだしたい人には不評かも)

 うーーん、しかし、この少し後に産卵シーンがありますが、KJさんの疑問である、いつ交尾したのさ?はまったく謎。
(産卵してからオスがぶっかける式なのかも)

 主人公の息子は奥さんの同僚とともに避難バスへ。
 海を渡る橋(ゴールデンゲートブリッジ、ですよね?)は車で渋滞。
 軍が戦車を配置しようとして規制をかけている模様。

 そこへギャジラ接近。
 体を起こしたギャジラを見て、海軍さんは錯乱して乱射!
人間の愚かさを見せたシーンとも受け取られますが、ちょいと統率が取れていなさすぎかも。
橋を壊すのは軍隊の砲弾(ミサイル?)だったりするのは悪くないのですが。
 そこで子供が乗る避難バスに砲弾が当たりそうになったところ、ギャジラの背びれが遮ってバスは助かります。
(あーあ、このあと少年は言うのでしょうね。「ゴジラが助けてくれたよ!」)

 ここでギャジラくんが、艦隊を全滅させてくれないと私の中の怪獣は納得しません。
 小賢しい人間どもがバンバン撃ってきているのですよ。
映画の構成としても、このシーンで放射火炎発射!でしょうが。
 そして、その破壊力を見せつけておかないと、あとでムートーちゃんに放射したときの驚きが損なわれます。
軍艦を木っ端微塵にした熱線を受けてもムートーは耐えるのだ、と持って行きたいところです。

 ところがやっぱりギャジラくんは軍艦を攻撃することなく、市内へ進行。

 病院に残っていた奥さんも怪獣たちの接近で避難所へ向かいます。
 ムートーとギャジラに挟まれた位置だったと思いますが、奥さんが地下へ逃げまさに目の前でギャジラ対ムートーが始まるぞ、のタイミングでドアが閉まってカットアウト。
 盛り上がりません。

 さて、軍は核弾頭奪還を考えます。
 たしか、ムートーの電磁パルスは有効範囲半径320キロ(200マイル)と言っていたように思いますが、
電磁パルスを避けて上空9000メートルから降下する、というんですね。
 どうにも頭の良い作戦とは思えません。
 ゴールデンゲートブリッジに陸軍が配置されていたことを考えれば、サンフランシスコ市内にも軍隊はいたはずで、ムートーの巣に車両で向かったっていいんじゃないですか?
 落下傘部隊をどこかの航空基地から発進させてサンフランシスコ上空から落とすよりずーと早いんじゃないでしょうか。
実際、弾頭が奪われたのはまだまだ陽が高い時刻ですが、スカイダイビング部隊が着地したときには真っ暗の夜ですよ。
 しかも、降下で二人失ったと言っている。
 そりゃ、あんなビル街にダイビングし、高層ビルより低い高度でパラシュートを開くような行動を取れば死ぬ者も出てきますわな。
(ここも字幕の不備か? 「二人失いました」という翻訳だと降下の事故で二名死んだと受け取ってしまいますが、「失う」がlostだったら、「行方不明」ないし「連絡途絶」という感じでは?)
 もっと驚きはこの作戦にも主人公が参加していること。
 えーと彼は海軍の爆弾処理班なんですよね。ん、海兵隊か?
スカイダイビングも出来るのかぁ。すげーや。

 怪獣バトルのさなかに軍人さんたちは降下して、ムートーの巣を目指します。

 結局、怪獣バトルは背景にされています。
怪獣たちはよく動き、日本の怪獣映画では久しく見られなかった動物的な肉弾戦を演じ、怪獣心をわくわくさせてくれました。
 でもでもでも。
 しつこいほどに人間目線を使うので、怪獣バトルに感情移入できない。
 怪獣目線に近い位置にカメラポジションが来ても、それはビルの屋上から見守る兵士の視点であります、という映像構成になっている。

 ドラマの軸は怪獣の戦いではなくて、核弾頭を探す人間たちに置かれているのです。
 爆発まで27分のところで(奪われてから1時間程度しか経ってないの?)弾頭を回収、起爆装置を解除しようとするもうまくいかず、とにかく船へ運べということになります。
 出た!『バトルシップ』でおなじみの砲弾御輿!核弾頭をみんなで担いでわっせわっせ。

 主人公が一計を案じてムートーの卵を焼き払い、ムートーちゃんに睨まれてもはやこれまでか、と思ったところ、横っちょからギャジラの熱線が飛んできてムートーちゃんを撃退。
 これもなぁ、劇中初めて放射火炎を使うシーンなのに、ギャジラの存在感が薄いんだなぁ。
 ギャジラのおかげでムートーちゃんが後退。
 弾頭はなんとか船にたどり着くけれど、ムートーくんがギャジラと戦いはじめてムートーちゃんは船を襲います。
卵は焼かれてしまっているので、腹いせにエサ泥棒をやっつけようというところでしょうか。
 卵焼却などで手間取った主人公は船がムートーちゃんに襲われているときにはまだ遠くから見ている状態。
一緒に降下した兵士たちは全滅。

 あれ?ムートーくんが倒されるのは、船が襲われるより前だったか?
 ムートーくん、ギャジラの尻尾打ちでビルにめり込んで絶命・・。
そのアクションはいいんだけれど、その程度の打撃でムートーが死ぬのはいかがなものか。
 さらに、崩れ落ちるビルにつぶされてギャジラも一旦気を失う。
んーー、こんなのゴジラじゃないよ。

 主人公は弾頭が載せられた船にたどり着き、とりあえず発進させつつ起爆装置を止めようとするけれど、電磁パルスでエンジンストップ。
(タイマーはあと13分か18分。時間表示窓のガラスが割れていてよく読めないんじゃー。タイムリミットサスペンスをやりたいんだったら残り時間はもっとはっきり見せよう)
 あわあわしているとムートーちゃんが襲ってきて、またもや絶体絶命。
 しかーし、我らのヒーローギャジラくんがムートーちゃんを捕まえて、口をこじ開け口内に放射火炎をぶっ込むという荒技を使う。
 哀れムートーちゃんは体の中を焼かれて絶命。
首が焼き切れて頭がもげちゃう。
 このムートーちゃんの最期は、ちょっと残酷でイヤでしたね。

 ここでファンファーレ的にラッパが「ぱぱー! ぱぱーー!」と鳴りますが、本作の音楽は全体にBGMに徹していてあまり印象に残りません。変な音使いがあっておもしろい面はありましたが。
 怪獣のライトモチーフでもあればよかったのに。

 エンジンが再起動して船は走り始め、もはや主人公は起爆装置を解除する体力もなくばったり倒れます。
(ここのカメラワークはちょっとおもしろかった。カメラも主人公と一緒に倒れ、背景がぐるりと回転する)
と、ギャジラくんも主人公とシンクロするようにばったり倒れ込む。
 んー、人間と怪獣の行動をシンクロさせるのはどうなんでしょうね。
「ふぁいなるうぉーず」でも似たような演出がありましたが、怪獣を矮小化させてませんか?

 核弾頭を載せた船が湾内をのろのろと進むカットがありーの、レスキュー隊が主人公を助け上げるシーンになります。
ヘリから降りてきた救助隊が主人公を抱き上げたとき、起爆装置の残り時間は5分と20何秒か。
 カットのつながりから考えて、主人公がヘリコプターに運び込まれた直後に、窓の外で閃光が起こります。

 ああっ、キックアスの奮闘もむなしく家族との再会を果たせないまま死んでしまうのか・・・。
なんというクライマックス!

と思ったら・・・・。
 ヘリコプターの窓から、なんか、キノコ雲が見えるんですね。
あれがメガトン級の核爆発なんでしょうか。
 ヘリコプターは熱線に焼かれることもなく、爆風で吹き飛ぶこともなく、(あ、電磁パルスも起こってないね)
サンフランシスコもまるっきり無事。

どあほーーーーーーーーーっっっ!!

核兵器をなんだと思っているのか。
死の灰が降る描写もナシかよ。
海水はどうなった?
 サンフランシスコ湾の水深てどれぐらいなんでしょうね。
海底の土壌も蒸発するとか吹き飛ばされるとか、とにかくひどいことになるのは必定。
もちろん、爆風で市街も相当破壊されるはずである。

 最後の最後で馬脚を現した感ありですね。
 核兵器に対する意識の低さ。
 劇中で核爆発を描きながら、その惨禍、凶悪さを描こうとしない。
核兵器を肯定していると受け取られても仕方ない。核実験は怪獣を殺すためだったとうそぶくような映画ですから。


 これでゴジラを作ったつもりか。
 私は「すべてのゴジラ映画が反核兵器映画でなくてもいい」と主張していますが、核兵器を扱いながらも反核になっていないゴジラ映画などまったく認めません。
 そして本多猪四郎監督の遺志にも背く行為と考えます。

 ですからここまで、渡辺謙さんが演じた人物の役名を書きませんでした。
あんな形ばかりのリスペクトなど、片腹痛いわ。

 あとはお定まりの家族との再会があり、死んだかに見えたギャジラが立ち上がって海へ消えていくというエンディング。

 ここでも日本語字幕に疑問を感じました。
 ビル壁面のモニターに「King of monster なんとか secure なんとか our city?」というような表示が出ますが、
これを日本語字幕では「怪獣王は救世主か?」と訳しています。
 ぜんぜん意味が違いますよね。
「我々の街を守ったのか?」と「救世主か?」ではニュアンスがまるで違います。
 最初に見たときには日本語字幕しか読まなかったので、あーあ、ゴジラをアメコミヒーローみたいな存在にするつもりの映画だったのか、とがっかりしました。
 しかし、もともとの演出意図は、ゴジラの行動は人間を助けることもあるんじゃないの?という問いかけだったと思われます。

 その考えは間違っていないのだが・・・・。

 というわけで、怪獣という存在の解釈や演出面で良いところは多々あって、日本の怪獣関係者も見習いましょうと思うところのある映画でしたが、
 怪獣論を抜かせばとんでもないスットコドッコイ映画だったと申せましょう。


 それから何度も指摘した、決定的瞬間を見せない演出は緊張感の持続には寄与しています。
 さあこれからだ!と思った瞬間にはぐらかされると、カタルシスが先延ばしにされて〇〇が寸止め状態となり、興奮が冷めず、先を見せろ先を見せろという気持ちになります。
 それが牽引力となって、飽きられるのを防ぐ効果はありました。
しかし、飽きない=おもしろいではありません。
 見ている間に感じたのは疲労感です。
 それは初見の時に感じたこと。知的興味をほとんど喚起されず、危機的状況の連打で興奮を維持されただけ。
作劇としては、昨今流行りのアトラクションムービーに分類されるでしょう。

 怪獣に対する視線には暖かいものがあり、近年の日本製怪獣ものよりずーっと納得できた分、実に惜しい。
続編を作るなら、もっとストーリーを吟味してシナリオを作って欲しい。
もちろん、戦争観、核兵器観を猛反省せよ!


 付け加えると、3D版はなかなか良かったです。(3D版も別途見たんじゃ~。こちとら自腹じゃ)
 この作品は本編部分は2D撮影で、あとで3Dに変換したものだそうですが、自然な仕上がりでした。
 カットによっては2D版より3D版のほうがわかりやすいものもありました。はっきり覚えているのは、1999年フィリピンでのムートーくんが出て行ったあとの繭の形です。
 2Dで見たときは、まだ中身のあるムートーちゃんの繭(さなぎ?)から左へパンして「もうひとつは中が空だ」とかなんとか言われても、暗いシーンでもあり、どこになにがあるのかよくわかりませんでしたが、
3Dでは、立体に見えるので何かが開いて空っぽになっているのがよくわかりました。

ごあいさつ

ここをご覧になっている方がどれぐらいいるのかよくわかりませんが、一応のご挨拶を。

今年も喪中につき、年始のあけおめはなしです。
寂しい正月でありますわな。

さて、2012年も本日最終。
今年はあまり記事も書かず、発信することの少ない一年となってしまいました。
掲示板にもあまり書かなかったしなぁ。

まあ、そういう波もあるってことで。

しかしながら、12月にはNHKのドキュメンタリー「イノさんのトランク」(本多猪四郎監督と黒澤明監督の交流を中心にしたもの)とそれに連動する書籍「ゴジラのトランク」(本多きみ著)に触れ、
これまで作品を通じて感じていたいろいろなことがかなり当たっていたのだな、と確認できたことは大きな収穫であり、
その件はいずれ何らかの形で書かなければなるまいと思っています。

今日はブルーレイで『フランケンシュタインの怪獣サンダ対ガイラ』を見ました。
本多演出のことも考えましたし、特撮映画全般のことも考えました。
日本の特撮はこのままではイカンですよ。
一般映画を支える特撮は技術の進歩とともに進化してきていると思いますが、特撮を売り物にするいわゆる特撮映画というジャンルは特殊な領域に縮こまろうとしていませんか?
かつての特撮映画は、もっと大枠の映画として勝負していたのであり、特殊な趣味の人向けに作っていたわけではありません。

そのあたりのこと、特撮ファンこそが問題意識を持って考えるべきではありませんか?

というわけで、また来年!

特撮博物館

120915.jpg
東京都現代美術館に来ました。
特撮関係の遺物をこれでもかと集めた蔵出しスペシャル。
予想より良かった。
新作短編映画は技術面には見るべき点があったけど、トータルであんまり面白くないね。
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